野村桔梗HP

フィリピン バレンボイムにて


今年も終戦記念日がくる。

私は祈る。

豊川海軍工廠が空襲にあったのは昭和20年8月7日。
今年の二月に他界した伯母(享年87歳)は、学徒動員でここで作業をしていた。空襲を生き延びることができたが、多くの友人を失った。

複雑だが、私は豊川海軍工廠が出来なかったらこの世に存在しなかっただろう。

私の父方の祖父は広島県呉市の海軍工廠の従業員だったが、豊川海軍工廠に昭和16年に転勤してきた。父はまだ1歳に満たなかった。

父と10歳年上の伯母はアニメ『この世界のかたすみに』の主人公のような少女時代を呉市で過ごした。親戚も友人も多くを残して一家は愛知県に移転してきたのだが、あのまま呉市に住んでいたら昭和20年6月22日には呉海軍工廠の空襲、7月1日には呉市街地への空襲にあい、そのひと月後には原爆を体験したに違いない。

父より18歳年長の伯父は、呉市から満州に渡り、満州遼陽師団に入学。そこから学徒兵として南方航空路部本部に配属され、フィリピンのバレンボイムに赴任した。
かの地で空襲にあい、たった22歳の生涯を終えた。それは終戦のわずか半年前のことだった。

伯母の遺書にこの伯父のことが書かれていた。私はその意を継いで、先月末に伯父の眠るフィリピンのバレンボイムに慰霊に訪れた。

残された伯父の日記の冒頭に書かれた言葉

「死は必ずの終である。我々の本能は死を畏怖する」


死は肉体の終だろう。しかし、その精神には終わりはない。

そして、戦争を生き延びた残されたものたちにとって、また、その遺族たちにとっても、心の終戦はこないのだ。



2017年8月10日          野村桔梗



ラスコーの洞窟壁画において、クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)の絵を描く快楽についての考察


           

上野でラスコーの壁画展が開催され、それを嬉々として体験してきたが、多くのことが解明されないままの謎の壁画(レプリカ)を前にして認識を新たにした。
古代人が壁画を描いた理由、それは研究され続けていて、ひとつの仮説としてシャーマンが呪術的な意味合いで狩猟の成功を祈るために動物を描いたという説があり、その仮説において考えると、シャーマンが絵を描いたのか、あるいは、絵を描く能力のあったものがシャーマンになりえたのかという考えもできるのではなどと思索していた。
だが、壁画やクロマニヨン人の復元像、彼らの作り上げた画材や武器や装飾品を目の当たりにしていると、そんな考えなど私には無意味なものになってしまった。
ここには「根源」があった。絵を描くことの根源的な迸り。


―――ああ、それは楽しいのだ――――

人は筆を持ってすぐに絵が描けるわけではない。絵が描ける器用な人と、描くことが苦手な人がいる。絵が描けるようになるには、最初はぐちゃぐちゃとした線描から、円などの描写、そして、見える対象の模倣画へと続く。それは得手不得手に限らず子供のころに誰もが通る道だ。その場合、上手に描けないものはそれを諦めるという方法をとる。逆に模倣した絵を他者が見た時に賞賛するに値するものであり、褒められるとますます描くことに没頭し、練習し上達する。上手く描くことの自己満足もするし、さらに他者に披露するという行為につながる。ここにあるのは「描く快楽」だ。

これは現代人も原始人も同じだろう。人間というものは練習をしなければ模倣を繰り返さなければ、描く技術は身に付かないのだ。ところが、このクロマニヨン人が描いた壁画は、何度も練習を重ねて、顔彩や画材等、絵画技術の研究を重ねたうえでの作品になっているのである。原始、彼らは「描ける器用な手」をもって、まず、地面に指で絵を描いただろう。しかし、それらは風雨により消えさってしまう。うまく描けるようになると、人に見せたくなったのだろう。あるいは、子供達が見て、「わー、これはウシだ!美味しいウシだ」と小躍りしながら喜んだのかもしれない。他者が喜ぶということは本人にも快感だ。もっと喜ばせたい、そして、そのうち学ばせたいという欲望が沸き起こる。「これらを私たちは捕獲する、捕食する、これらの生き物は美しい筋肉を持ち、美しい銅色の被毛をもち、美しい角を持っているのだ。だが、これは危険だ、生きるために学びなさい」といった感情が沸き起こるのは自然な流れではないかと思う。
そこには美意識も存在する。ラスコーの壁画の動物たちはとても美しく描かれている。美を模倣したい、残したいという感性も絵描きの原点だ。そこにはすでに絵描きとしての遺伝子が育まれていたのではないかと私は想像する。
描き続けることは「楽しい」ことだったのだ。わざわざ暗い洞窟の中に足場を組んだり、ランプをともしたりしながら、風雨で消されないで残る「作品」を制作したのである。これは、すでに自己満足や呪術のためだけでなく鑑賞者を意識した展覧会的な意味を成しているのではないか。これはれっきとした「美術」なのだ。

同じ絵を描くものとして、実地的見地で捉え、それを鑑賞すると、ただひとつ、これを描いた絵描きは、本当に楽しくてしかたなかったのだろうという感覚が伝わってくるのである。

私はクロマニヨン人の作品によって、「原点回帰」をした。
時折、なぜ、こんなことをしているのだろう、なぜ、描くのだろう、なぜ作品を制作するのだろう、なぜ、文章を書くのだろうと、つまらない考えが沸き起こる。
それを、小説の『竹久夢二のすべて』で竹久夢二先生とその恋人の彦乃の台詞として文章表現したことがある。夢二先生は「芸術家という言葉が嫌い」ということだったが、よく先生自身も「絵を描く意味」を見失っていたらしい。私が彦乃に言わせた言葉は「でも絵を描くことは幸せでしょう?」だった。この場面は、映画の『夢二〜愛のとばしり』でも、再現されていてとても嬉しかった。

なぜ人は絵を描くのだろう。
芸術が存在するという生物学的な理由はわからないという。私の好きなリチャード・ドーキンスの『利己的遺伝子』の考えからしても、種の保存においての芸術、美術の存在意義は重要なものではないだろう。
だが、快楽という意味ではどうだろう。人は「心」を持ち、「魂」という科学的に説明できない何かを有する。美を愛で、それを基に創造することの快感は、魂の快楽なのかもしれない。魂は受け継がれる遺伝子であるからこそ、人は現代まで存続する強い種であったともいえるのではないだろうか。

古代人の残した壁画には「美」と「快楽」と「魂」があった。とても個人的見解ながら。

   2016年12月     野村桔梗





著作の映画化において


■映画撮影現場での考察■

「特権」という言葉は好きではない。だが、私は、期せずしてこの上なく幸福な特権を得た。
「映画」が大好きである。その映画の撮影現場に立ち会えるという特権だ。

「執着」という言葉は好きではない。「愛」が「執着」に変わるというのは、一般的にあまり好ましくない状況を生むものだ。

だが、撮影現場では、映画への「愛」と、自分の仕事への「執着」が素晴らしい相乗効果を生むという、そのような稀少な状況を創り出し、その多くの純粋な魂の集結としてフィルムが出来上がっていく。

ほんの数分間のコマの映像を現場のマックで確認した時、私はそこに奇跡を観ることができた。多くの人が結集して人為的に作られた美の奇跡だ。

かつて私はその場面を言葉で表した。私が言葉を綴るとき、いつも場面や動作の映像を脳裏に描いて、それを表現していく。その私が創造した架空の場面が、そこにはさらなる美として演じられ焼き付いていた。これを奇跡と言わず、なんというのだろう。

先に言葉ありき。それが活人画となり、映像となるこの美しい芸術。

これには、才能集団の50人にも及ぶ映画に携わる人々の能力と技術、そして、愛と執着があることを、現場に居合わせてしみじみと感じることができる特権。

それは、監督や役者、脚本家だけでなく、衣装、光り、影、動き、風景、音、色、物、現実にはない空気感、風、質感、レンズ、機械、それらすべてを技術で操る人々、現場の雰囲気を気遣う人、吠える犬を気遣って走る人や、花びらをひとひら散らす役の人、清掃をしたり、皆に美味しい食事をふるまう人、配線を片付ける人、宿を手配する人、、、撮影現場のスタッフの人々・・・

すべて映画への「愛」がなければできない仕事であり、これほどまでに多くの人間の「愛」によって構成された芸術作品というものは他にはないだろうと、私は思う。

私のこれからの映画への視点が変わることの苦悩が想像できる。これからは大変だ。

映画を観客として楽しめないだろう。私は、一コマずつ、この場面に携わった多くの人の「手」を意識しながら、とても忙しい目で隅々まで見回さなければ気が済まないだろうから・・・。

それも幸福な「特権」ではないかと今は感じている。

        2015年4月6日  野村桔梗



「死に至る病(絶望)の克服」

キルケゴール曰く「死に至る病」を克服することは困難だ。
それは自覚なくしては死に到達することもできない。緩慢な疑似自殺行為を繰り返すのみ。
私自身も無自覚な長い時を経て、それと対峙できたとき、
ようやく克服への道が開いた。
それを自覚し、克服への道を行く人の優しさと寛容を私は愛する。
そして、それと同時に、それを克服した人にのみ与えられる愛と幸福も存在する。

Amor magister est optimus.  (愛は最良の教師)

同志に贈る言葉を綴るのが、今後の私の本望だ。

     2016年1月20日  野村桔梗