野村桔梗HP                        

映画批評


「マルメロの陽光」     El Sol del Membrillo   1992   
監督・ビクトル・エリセ Victor Erice   スペイン


この作品は3種の就労の比で進行される。
リアリズムを追究する具象画家、心象を描く抽象画家、建築工事をする肉体労働者たち。
工事の労働者たちの仕事は日々、着実に進行する。彼らはその仕事において雇用者とノルマによってのみ支配されている。肉体を動かせば、彼らの仕事は問題なく進行する。
抽象画家は特別なモチーフを必要とせず、室内で数枚の絵を同時に描く。小さな窓からの光が不自然にキャンバスに当たろうが、難なく自分の描きたい象(かたち)と色を重ねることができる。その制作現場はあたかも肉体労働者のそれと似て、職人風だ。
一方、室外で絵画制作を進める具象画家は美の対象となったマルメロの木がなかなか描けない。彼は「陽光」によって仕事が進む。陽光が彼を支配している。陽光は移ろうものだ。
一般概念で醜悪とされる物体でも、角度と光によって美の瞬間が必ずおとずれる。光はすべての美を生み出す。画家は光を描くものだとも思う。具象画家が光に囚われるのは当然のことなのだ。
画家は自由業だ。自称で誰でもなれるものだが、作品を消費してくれる客がいなければ商売としてはなりたたない。その自由の意味はとても危うく、そして、彼らの肉体と精神はともに、描く対象のモチーフに支配されているともいえる。
冒頭、画家はキャンバスの枠組みを作るという労働から始まるが、実作に入る過程で彼が大きな何ものかに支配されていることに気がつく。3つの比較によって職業上の本当の意味での自由と束縛に関して深く考えさせられることになる。
マルメロの葉や果実に意味不明のサインを入れながら、一種、偏執狂的に制作に挑むこの画家に対して、エリセ監督本人が自己投影しているかに思われてならなかった。彼は寡作で知られる監督でこの作品も十年に1作の待ち望まれたものだ。この作品はその彼の芸術家的精神の言い訳と同時に、芸術家という芸術家への自嘲や揶揄をも含み、自己追究の作品になっているのではないかと私は思う。
芸術家というものは、自己演出をしながら作品に付加価値を付けていくものだ。その芸術的価値、評価には制作に費やされた時間や、過程での苦悩や苦労までを言い訳にすることもあろう。
だが、芸術家のこだわりは、時として他者にとってはとても滑稽かつ陳腐なものだ。それを言い訳にする場合、自己欺瞞に飲み込まれることもある。それさえも乗り越えて、それを美への執着に転化しなければならない。
この画家は結局、油絵を未完成で終えた理由を「天気が悪い」と言い訳した。自分がいかに自然の美と一体化しているかと理由付けしながら・・・。美の追求は便宜上の詭弁になる。
途中、彼が告白することによって、果実や葉へのしるし付けの白い絵の具は、物体の位置確認であることがわかる。画家は時間や重力にも支配されている。
だが、そのしるしは画家本人が美を見出した果実に対して、その美を自ら損なうという矛盾を起こすものであることに、彼は無頓着だと判明し、その行為はいかにも滑稽で皮肉だ。
画家は苦悩しながらもその制作過程を楽しむ。その木への思いいれが子供のころの木をめぐる思い出であり、彼が具象として描きたかった対象は実は形ではなく、郷愁と、すでにそこにはあり得なかった過ぎ去った光だったのかもしれない。

いったい誰に対して撮ったのだろう。画家の現実の制作過程とその作品をのぞくことができる『美しき諍い女』(こちらは画家役を俳優が演じたが、制作は画家本人だった)同様の稀有な映画で、絵を描く私にはとてもおもしろいものだ。けれど、絵に興味のない鑑賞者は、これをどう受けとめるのだろう?

ただし、こだわりの芸術家を撮り続けるエリセ監督のこの作品が、このうえなく美しい映像であるのは言うまでもないことだろう。



「エレニの旅」   TRILOGIAI: TO LIVADI POUDAKRYZEI  2004
監督・テオ・アンゲロプロス TheodorosAngelopoulos  
ギリシャ・フランス・イタリア・ドイツ
 



1919年、ギリシャの湾岸に住み着いた難民たち。ロシアに移民として渡り、革命の勃発によって逃げてきた逆難民のギリシャ人たちだった。
その中の一人、3歳で孤児であり難民である運命を背負ったエレニという女性の悲劇的半生を描いた作品。物語はエレニが13歳で養育者の息子の子供を堕胎するという衝撃的な場面から展開する。
彼女はさらにその恋人の父親、彼女を拾った養父によって、成長の後に後妻にされる運命をも背負った。それから彼女の押付けられた運命に抗う旅が始まったのだ。
非力な女性は時代や運命や環境から容易には逃れられない。この映画の中での彼女は寡黙で、意思を表明することもままならない。だが、それでも彼女は自分なりの信念を持って、まるで河の上に置かれた木片を頼りに渡るような危うい日々を送って行った。
戦争はそんな彼女のほんの小さな光さえも奪い去る、抗いがたい時代の運命だったのだが。

映像美を語るとき、タルコフスキーとの共通性を思う。水の表現、水の美しさ、水の恐ろしさ。けれど、この場合は、パラジャーノフとの相違を語る方がおもしろいかもしれない。
いずれも圧倒的な美的表現に息をのむ。
パラジャーノフは、木、石、水、布、毛皮等のそれぞれの質感が現実よりはるかに強烈に視界に飛び込んでくる。すべての物質がそれぞれ際だって美しいのだ。
しかし、アンゲロプロスのこの映画は、画面の中の物質はどれひとつも訴えてはこないのに気がつく。それは一枚の絵として成り立っているのだと思う。すべてが調和美なのだ。
岸辺の難民の村の全体像が映し出されるところから始まるが、それは家も河も人も馬もすべてが同化してひとつに融合した絵になっている。
ザラついた点描画のような質感で、統一された色彩のそれは、アメリカのテンペラ画家であるアンドリュー・ワイエスの作品を思わせる。

この映画は生臭い人間の業と欲望、血と争いをも描いているのに、絵画のように無臭だった。けれど、ただひとつだけ、雨の匂いだけが最初から最後まで漂っていた。

「地に降る涙のように・・・」


「揺れる大地」   LaTerra Trema     1948
監督・ルキノ・ヴィスコンティ   Luchino Visconti  イタリア 


これは第二次世界大戦後のイタリアの南部問題を取り上げたもので、舞台は実際のシチリアの貧困な漁村であり、出演者も現地の素人を使用している。
初期作品なだけに、とてもストレートな訴え方をしている。起承転結のあまりにもストレートな物語。表現方法でも、たとえば、主人公の漁師が独立の 先導者として立ち上がって、失敗、挫折し、再度、漁師から搾取をするマフィアのような仲買人たちのもとに仕事をもらいに行く場面。彼を他の漁師の見せしめのために愚弄する彼らの事務所の壁に大きく書かれたムッソリーニの名前。それは1945年に銃殺刑にされた故人のファシズムがここではまだ継続されている ことを示しているのだろう。確かに安直だが、わかりやすい。
これを観ていると、大好きな映画のひとつであるパゾリーニの『乞食/アッカトーネ』(1961年作)が、想起された。
見比べる限り、パゾリーニはこの映画に相当影響を受けたに違いない。『アッカトーネ』は時代も違い、都会の労働者階級の貧困を描いているが、いず れも支配されるものからの独立心をも同時に描いていると思う。その支配する主人と奴隷の関係性からいかにして立ち上がるかということだが、非力で武器を持たない彼らは労働に従事しないことがプライドと主張に代わる。だが、もちろん、それでは生活が成り立たない。一方はヒモになり、一方は漁師しかできないた めに無職になる。
そして、彼らは社会の強制的な仕組みに負けてしまう。家族のために、食べるために。
そういった個人の負傷と闘いが無駄にならずにいずれは社会が改革されていくひとつの礎となっていくことを、我々後の人間は知っている。
描かれ方は変化したが、ヴィスコンティーはこの時からすでに家族を基本テーマにしていたのだ。キアロスクーロ、光と影の美的表現もそのままに・・・。
この映画の中でとりわけ印象に残ったのは、この家族の長女のマーラの何ものにも汚されざる聖性だ。彼女の憂鬱かつ絶望的でありながら自己を見失わない表情は、ジョルジュ・ド・ラトゥールの『マグダラのマリア』の絵を彷彿とさせた。
それは、『アッカトーネ』のヒロインの女性が恋する男のために処女のままで身を売って彼を助けようと思いながらも踏み出せずに苦悶する姿にも通じる聖性だった。

●奴隷は、主人の命令で労働し、主人は遊んで暮らす。奴隷の労働の果実は主人に取り上げられ、奴隷はそのおこぼれ しか享受することができない。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。しかし主人はやがて労働することを忘れるようになる。主人は奴隷がいなければ生きていけなくなる。ここにおいて主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。

●自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に[主人に]現れ、自己意識の真理としては現れない。しかし、 支配の本質が、支配がそうなろうと欲したところのものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接そうであ るところのものの逆になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう。

ジョルジュ・ド・ラトゥール作



「CITY OF GOD」    CIDADE DE DEUS・GOD'S TOWN    2002 ブラジル
監督・フェルナンド・メイレレス   FernandoMeirelles  

2002年公開のブラジル映画。もっとも危険といわれた地域"CITYOF GOD"で生まれ育った作家パウロ・リンスによるノンフィクション。

この際、人道的な問題を無視して・・・カッコイイ映画だ。エンターテイメントとしてすばらしいと思う。
だが、しかし、ノンフィクションであることが、それが現実的な悲劇であることを否応なく叩きつけて、考えることを強要してくる。
「生きるために殺す」子供たち。それは、アフリカの内戦で今も銃をかついでいる9歳の少年を、衛星放送で9・11を「聖戦だ」と驚喜していた子供たちを思い起こさせる。
死生観は環境と教育が左右する。
その神の都市(スラム)の子供たちには、あたたかいチキンや、身を守る銃をくれる人が神だったわけだ。その神の膝元に、彼らが自己選択して生まれてきたわけではない。

日本にもグロテスクリアリズム文学の骨太な映画があった。それはいつも心の片隅にある忘れがたい光。人々の生活や教育環境が改善されてきたからこそ、忘れてはならない大切な問題提起だ。
悲劇を忘れることは、時として人を野蛮に回帰させてしまうからだ。

『地の群れ』
製作=えるふプロ=ATG 1970.01.31  白黒
製作/大塚和 高島幸夫  監督/熊井啓  脚本/井上光晴 熊井啓  原作/井上光晴




「真珠の耳飾りの少女」  
GIRLWITH A PEARL EARRING 2002
監督・ピーター・ウェーバー Peter Webber 
  イギリス 



フェルメールの『青いターバンの少女』の絵をめぐる物語。
淡々と静謐に流れてゆく場面。病んだ父親との別れ、思い、少女が背負った悲しみはたった一枚のタイル画によって表されるのみなのだが、これほどまで胸を打つとは。

向上心や好奇心、その内に秘めた才能を自己抑制しなければならない立場に置かれた召使いの身。その恋心までも。
だが、彼女は無垢で純粋だが、したたかだった。
彼女は時代と運命に無抵抗を強いられていたようだが、実は抗っていた。
横暴な貴族の毒牙に汚される前に、若い恋人である肉屋の少年に身をまかせる決心をした。しかし、その実は、若き恋人は主人であるフェルメールへの激しい恋慕と欲望を満たすための身代わりだったのかもしれないと私は思う。それは主人であり愛する人の、その後の人生をも救う行為だったかもしれない。ある種の献身なのだと思う。
彼らは結ばれないままで、プラトニックな関係を貫いた。そのストイックな愛こそが、私にはかえってエロティックに感じられる。
主人の妻が真珠をつけた使用人の彼女の肖像画を見たとき、発狂しそうなほど逆上した気持ちがわかる。そこには、性行為以上のエロスが筆によって顕在していたからだ。

パウル・クレーは言った。「見えるものを描写するのではなく、見えるようにすること」それが芸術だと。見えない様々な力、意思、輝きをキャンバスに見るということだろう。

ジル・ドゥルーズは言った。「モデルとして機能している対象を、キャンバスの上に再生するために描くのではなく、モデルとコピーの関係を逆転する機能を持つ絵を生産するために、すでに、そこに存在しているイメージの上に描くのである」

まさに、彼女はそこに再現されただけではなく、すべてを物語るほどの集積になってキャンバスにとどまったのだと思う。

私はずいぶん昔に習作でこの絵の模写をした。画像のものだ。私が受け取っていたイメージはこのモデルの純粋無垢の力だったのだが、どうしても私が描くと「愛を知ってしまったしたたかな女」が表われてしまった。自分の力のなさを棚にあげて、この映画を観たおかげで、この絵もまんざら嘘ではなさそうだな、とおもしろく感じた。この映画の原作者の絵画解釈と遠くなかったのだとしたら・・・。

Kikyo模写絵